大島航路
このところ写真動画ネタが続いたのでコレクションネタを…
国鉄の連絡船と言えば青函・宇高・仁堀・大島・宮島の5航路でしたが、この中で最も早く無くなってしまったのが大島航路でした。…関門とか稚泊とか関釜とかいわないでね、それは鉄道省…じいさまの家が周防大島にあるので毎年乗っていましたが、今や山陽本線撮影お立ち台の大島大橋ができたことで終航となりました。
じいさまの家の玄関に飾ってあったモノですが、じいさまが死んだ後、もらってきました。田舎のことでマニア的な価値でなく、タダの置物だったので潮風に当たってけっこう痛みが…拭いても拭いても汚れが落ちません…というか、錆?
じいさまは橋開通当時議員をやっていた&建設誘致の中心の一人だったようですが、おそらく関係者にごく少数配られたモノだと思います。ほっといたらそのまま燃えないゴミか何かの重しか海の藻屑にされていたんじゃないかと…
肝心の船の写真は…実家のガキの頃のアルバムにちょっとだけ写っているのみ。大畠の駅前から桟橋まで急ぎ足で歩いて船に乗って、小松港で軽トラの荷台にのっかって…ってのは鮮明に覚えています。
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コメント
おばんです。
この他の4航路は乗船した経験があるのですが・・・。
いったいどこの駅とどこの駅を結んでいたのでしょうか?
仁堀航路も800tくらいのかなりの小型フェリーでしたが、同じ様な大きさだったのでしょうか?
教えて先生!!
投稿: 鉄たま | 2007年7月17日 (火) 23時08分
おばんです。
寝る前に覗いてみたら…
場所は山陽本線の大畠と周防大島の小松港を結んでおりました。島側は国鉄バスの路線でして、鉄道と国鉄バスの連絡のための航路でした。今は一部がJRバスで最奥の油宇までは防長交通バスのみになりました。国道437号線は本四連絡道路の一つのようで、大島島内でとぎれた後、四国に続きがあることから島といえども国鉄バスが担っていたんじゃないかと思います。
流れの急な大畠瀬戸を渡す渡し船でしたので、船自体は宮島航路とどっこいの200トンくらいの大きさで、実際、宮島航路に双頭式の新造フェリーを投入し、その玉突きで引退した船がここで第二の人生を送っていました。
現在では当時の桟橋の面影は全くなくなっています。昭和51年7月号の時刻表によると1日34往復、距離3キロ、所要時間13分でした。
…次のエントリーで時刻表もアップしましょう。
投稿: 西乃湯 | 2007年7月18日 (水) 00時49分