というわけで、11月2日の講演会に何とか行くことができました。
まずはこちら。485系での車内アナウンスと乗船名簿配布ですが、今回、クハが13号車、モハが12号車にきちんと設定されていました。
それだけではなくて、車内の広告も前回とは違うものに。
でもって、並んでるED75のHゴムの色がグレーになってます。
これは夕方の撮影タイムで撮ったものですが、ドアの南京錠など余計な物はすべて外した撮影仕様となってます。
正面アップがこんな感じ。ヘッドマークの文字が青いのは宇都宮区のEF81用だからだそうで、青森のは文字が銀色で取り付け方法も異なるので・・・と学芸員さんが言ってました。で、今回は撮影しやすいようにライティングも変えたそうで、こんな絵を撮ってみました。
こうすると文字の色が目立ちません。Hゴムの色が直って75の顔がやさしい感じがします。
さて、車内では前回同様、吉田さんのアナウンス、橋本車掌の乗船名簿配布です。
今回はてっぱくのお姉さんが反対側のデッキで白鳥や連絡船の略史、乗船名簿の解説を行うという前回の経験を生かした大幅な内容のアップグレードとなっていました。その中に、「最後の連絡船に乗るために何日も並んだ人が・・・・」といった内容があり、橋本さんとお互い指さして「俺たちだぁ」と爆笑してました。
さて、次は緊締具実演。今回は安田さんと山本さんのコンビ。緊締具の解説から実演、体験、質問など前回同様に進んでいきます。
が、何と言ってもこの後ろに今回登場した「第二青函丸」の模型のインパクトが。
第1青函丸と第2青函丸は車両甲板が吹きさらしなので、貨車を船で運ぶというのが非常にわかりやすい構造になっています。なので、まず模型を見てきてください・・・から始まりました。で、最後に学芸員さんが「船ですが、鉄道の線路の一部。定時運行が使命です。」と鉄道博物館で船のイベントというところを繋いでまとめていました。これ、このまま常設モードになるそうです。これで収蔵庫に残る連絡船は可動橋で貨車が動くギミックを持ってる松前丸・・・交通博物館時代は動いてましたからねぇ。もう1隻置く場所はありそうですが、他の展示物とのバランスが・・・だそうです。
さて、この後は南館3階に場所を移して講演会。まずは吉田さんの銅鑼から。
今回は髙橋さんが連絡船の概説をしてます。で、四方海話はオリンピックの聖火輸送。西沢キャプテンが船館で何度か話をしていますが、スライドショーを新たにつくったリニューアルバージョンです。
まずは昭和39年の津軽丸での輸送と洋上聖火リレーのエピソード。
続いては昭和47年の札幌オリンピック、大雪丸でのエピソード。函館到着時の歓迎シーンなど、当時の熱気が伝わってきます。このスライドショー、学校のオリンピック教育とか歴史で使えないかな。この間の6年の研究授業、高度経済成長のあたりやってたのですが、年号がすべて西暦。明治・大正・昭和を全く使ってなくって、後の協議会で思わず「西暦だけでなく、元号を併せて使った方が時代の空気感が出るんじゃ?」と意見したけどスルーされまして、何か釈然としない・・・
続いては吉田さん・森本さんの飾り毛布実演。今回はいつもと切り口が違います。
折り方からというこれまでにない路線です。
吉田さんが折っているときは森本さんが、森本さんが折っているときは吉田さんが解説をしています。森本さんの新作「ハート」は写真撮り底ねた・・・
折り方のパターンと組み合わせで、最後はおめでたく松竹梅で締めました。今回は時間の都合で体験はなしでした。
この後は休憩を挟んで安田さん渾身の作、「第五青函丸」です。
会場はこんな感じでほぼ満員。手前はkeiichiさんの十和田丸と初登場、空知丸。手前の紙ものと板ものは拙コレクション。
第五青函丸は昭和20年3月6日に青森港外で防波堤に接触する事故で沈没しました。
まずは戦時下の鉄道連絡船の概略、W型第1船、第五青函丸の建造の話からです。
浦賀ドックに残る線図からわずか6ヶ月で竣工、その他も次々と戦標船が建造されていたことがわかります。
髙橋さん作成の第五青函丸のイラスト。
沈没当日の気象状況。猛吹雪の中青森へ向かい、接岸しようにも走錨してどうにもならず、一旦港外へ出て再入港しようとしたものの、強風で流されて防波堤に接触。
右舷部を損傷し、浸水、沈没。無線通信は海軍と同一の暗号文をつくらなくてはならず、暗号作成が間に合わず、暗号の「セ」の打電で途絶え、総員退船の打電は間に合いませんでした。
乗組員86名(海員81名+海軍警備隊員5名)中、82名(海員77名+警備隊員5名)死亡・行方不明、生存者4名(船員5名救助のち1名絶命)という惨事となりました。そして、第五青函丸が徴用船、乗組員は海軍軍属になっていたことから、軍法会議にかけられることになります。
しかし、海軍の記録はすべて敗戦時に焼却処分されており、謎のままで、かろうじて見つけた資料も開示請求が認められるかは1年くらいかかるとのこと。調査が一段落したので、一旦発表という事になったのですが、それ以上に3年前からあたためていた企画、松下船長のご遺族へという思いがありました。遭難当時2歳だった娘さんが講演会にいらしたことがあり、第五青函丸の調査を安田さんが進めていました。
今回はサプライズで髙橋さん作成のイラストを額装してプレゼントという事になりました。最初は講演会後に個人的に・・・のはずだったのですが、突如講演会での贈呈式となりました。
スチルで撮り損ねたので動画から切り出しましたが、画像悪くてすみません。会場から大きな拍手がわき起こりました。
さて、講演会名物、keiichiさんの80分の1ラジコン。今回は空知丸が初登場です。
本人曰く、未完成とのこと。さらに航走会でぶつけて塗装はがれてるので前から撮らないで~と言ってました。が、やっぱり前から撮らないと。
こちらが後ろから。
連絡船は左側通行なので、こういう置き方で。
今回はスペースが少ないので切符類とプレート類を少々。
そして・・・
後の飲み会は盛大に盛り上がりました。お会いした皆様、ありがとうございました。
前回、今回の集合写真のデータ欲しい参加者の皆様、連絡を下さればダウンロードURLお知らせします。
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9月の段階で11月2日と聞いて、腹部超音波と胃カメラの日・・・予約が9:30と10:30・・・間に合わない・・・で、朝早く病院に行って、「用事ができたので、時間早めてもらえるとありがたい」と無理を承知で頼んだら快く変更してくれました。胃カメラは復活の時間を稼ぐために、のどの奥を麻痺させるジェルだけで全身麻酔なしの暴挙に出まして、うぇぇぇともがいて涙と唾液まみれで完遂。10時前に病院を脱出して根性で12時前にてっぱく到着。
胃カメラ、麻酔なしだと当たり前ですがどこまで入ったかカメラの数字が見えるんですよね。30センチくらいで先っぽがのどの奥、気道と食道の分岐点と思われる辺りを通るときが一番しんどいです。呼吸時は食道方面は閉じてるのをねじ込んでいくわけですから。で、胃の奥にあたる感じが・・・で、ずるずると抜いて終わるかな~と思ったら「最後に十二指腸行きます」で、ぐいっと奥の奥までカメラが。精神的ダメージがでかい!目の前に70の数字が。で、抜き始めたんで終わったと思ったら食道辺りでスピードダウン、40センチから30センチ辺りの進みの遅いこと遅いこと、そりゃ逆流性食道炎だからその辺ゆっくりなのはわかるけど・・・最後って言ったじゃんと思いつつ諦めの境地。カメラ飲んでる時間10分もないんですが、ものすごく長く感じたです。二度と麻酔無しでやるもんかと固く誓った胃カメラでした。
さて、沖縄モノレール、観音埼灯台台風避難から帰ってくる護衛艦撮影三昧、晴海中国イージス艦に吉倉桟橋、政府専用機祭と滞納してるのどうしようかねぇ・・・
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