青函連絡船 小湊桟橋跡
というわけで、東京へ帰ってきました。画像は青森の新中央埠頭入り口にある公園からの八甲田丸の眺め。昔の北防波堤とつながってて、奥まで車で行けるのですが、開門は9時から。午前中はシチサンで順光で、ベイブリッジやアスパムと一緒に撮れます。
で、八甲田丸のアップ。13日の朝はホントにキレイでした。この画像を見た西沢キャプテンや安田さんは思わず「スタンバイエンジン」と(笑)
さて、朝、大神さんが西沢キャプテンと安田さんと一緒に小湊桟橋跡にいくけど…というネタがあり、時間的にもあけぼのに余裕で間に合うので行ってきました。
昭和63年JR北海道発行の「栄光の航跡」320ページから4ページにわたって記載されているのですが、先の戦争の最中に北海道→本州の石炭輸送を強化するため、函館5岸壁に対して、青森が3岸壁だったための補完の2バース造営ということで、昭和18年から工事に入ったのですが、工期1年半で昭和20年には稼働する予定が、極度に遅れて未完成のまま終戦となったと書かれています。
で、戦後、空襲で壊滅した連絡船は雇船で何とかしのいでいたのですが、北海道からの物資輸送体勢が貧弱すぎて、米軍の軍需用品の輸送も窮して、昭和20年12月にLSTを貸すから1ヶ月で輸送体制を作れという厳命が下ったそうです。
で、とりあえず昭和21年3月にLST用に急造したのが下の図41のドルフィン2ヶ所をベースにした木造桟橋ですが、国鉄は戦争で中断した本格的な岸壁工事を始めて、昭和22年に係船岸壁と可動橋、機帆船岸壁を下の略図のように完成させたそうです。
上の画像は係船岸壁のLST側から撮ったもの。こちらは可動橋が設置されなかったのですが、そのスペースは用意されています。
で、実際の完成した写真がこれ。これも栄光の航跡から。地図と重ねると分かりますが、機帆船岸壁は拡幅されて現役で使用されているようです。可動橋は青森や函館のものと比べても遜色がないものに見えます。
連絡船本体は第六青函丸がテストで1回だけ可動橋側に着岸しただけで、あとはLSTだったそうです。今は左手の通路の橋の当たりに防波堤が築かれていて、最初のはその上から撮ったもの。図面にはLST用のドルフィンが描かれていますが、それらしきコンクリートの塊は海中にあるのですが、コンクリートの劣化が他の所とは全然違うので、後で消波ブロックを入れるときか何かに補強されたのか、それとも別のものなのか…という感じです。ただ、図面よりずっと岸壁に近いので全く別ものという気がします。
こちらが可動橋があった側、第六青函丸が着岸した岸壁。未だに防舷材の木材が残っていますが、かなり朽ち果ててきています。
で、桟橋の形状をよく見ると連絡船の船体の形に合わせて微妙なカーブをしています。
岸壁先端部。真ん中のはビットではなく、ウインチだったようです。こいつで舫い綱を引き寄せたとか。鉄板をはがすと中にはモーターが入っているはずらしいのですが、すでに朽ち果てて割れてしまっています。栄光の航跡の写真だと、先端にはビットらしきものが2つと電柱が写っているのですが、角度的に電柱の陰になっているのでしょうか。
そして突端には…赤丸の中を注目。
水準点が。とはいえ、全く番号が読めないので、国土地理院で検索してみたのですがここには水準点はないことになっています。
さて、この岸壁は古レールが使われています。岸壁上部にレールの断面が見えていますが、側面にはレールの頭部正面が見えています。これは下の赤く囲んだ部分の所に見えているもので、その下へ続く平行な茶色い錆びた筋がレールです。
可動橋の下だった部分は岸壁の拡幅で埋められてしまっていますが、こちらにも同様にレールが使われています。赤く囲んだ部分のように平行に縦に並んでいます。
で、可動橋の主桁の残骸。(青丸)ここにもレールが使われています。(赤丸)
昭和24年に使わなくなって航路中止、昭和40年に正式に営業中止。昭和48年に平内町に払い下げとなったそうです。高さがあるので漁船の岸壁として使うのも難しく、今や釣りの場所。目の前に後から作られたものとセットで防波堤扱いにされているような感じがします。
で、可動橋側の岸壁から振り返るとそこは線路を転用した道路。進んでいくと…
で、突き当たりの川の土手脇に明らかに年代不詳のコンクリートの塊が。
ここから川を渡って線路が青森方面と上野方面へ分岐してデルタ線になっていました。国土交通省の航空写真記録を見ると線路の様子がてきめんです。
まずは現在の地図。何となく線路の形が分かるかな。地図は国土地理院のHPから。
地図や航空写真はクリックで大きめの画像になります。
続いて1948年撮影の航空写真。ノースアップではないのですが、線路がはっきり分かります。
この2枚を重ねてみると…
現在の道路とほぼ重なります。というか、線路跡がそれなりに残っていたり、道路に転用されていたりしているのがはっきり分かります。
で、2001年の航空写真。出典は国土地理院の閲覧サービス。
だいぶ線路跡がわかりにくくなっていますが、どう見ても線路跡というダート道が残っていました。…写真撮ってくるの忘れた…で、地図と重ねてみました。
追加。2013年のGoogleEarthの画像。すっかり存在を忘れてた…
カラーだと線路跡が鮮明です。
新雷電橋の南側の橋詰のあたりに分岐があり、川や田畑の方へ降りていく狭い道と、そこから県道とそれに続くダート道が線路跡です。川や田畑へ降りていく方は車ではすぐに行き止まりモードです。夏で暑いし、アブとか多いので探索はしませんでしたが車で行けるところまではちょっと行ってみました。特に上野方面の線路跡、地図の黄色い線が南へ曲がった所から東へ向かう道はすぐそばに平行して2本あり、線路跡のダートの方は一段高くなっていて、民家が1軒ある所から先は進入が難しいぬかるんだ状態で林の中へ消えていきます。…え?そこまで行ったなら最後まで廃線跡探索してこいって?時間が…あけぼの撮影もあったのと暑いのとアブが多いのでやめました。実際、道路混んでてあけぼの撮影はギリギリセーフでしたから。
詳細な歴史的な事実や探索はいろんな人がやってるので見たままと地図上の推測でしかありませんのでツッコミはなしの方向で(汗)っつーか、大神さんにお誘いを受けなければここに改めて行くって発想はありませんでしたです。だいぶ昔に一度行ったことがあるのですが、記憶も曖昧、写真も撮ってなかったので…デジカメのない時代、貧乏学生にはフィルム高いし。
70年近くたってコンクリートの劣化が進んできているのでいつまでもつかというか、自由に立ち入りできるかわかりませんが、貴重な遺構は何とか残して欲しいですね。
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