最後の最後 1~4便
1ヶ月にわたって続けた青函連絡船20周年シリーズはひとまず今日で終わりです。まだまだネタはありますが…おそらく連絡船をリアルで知らない世代がネットの中では多くを占めているのでしょう、ただでさえ少ない閑散blogなのに、さらに連絡船シリーズは見事にアクセス激減でした(笑)っつーか、思い入れ過ぎ?
さて、昭和63年9月18日(日)本当にこれが最後の連絡船の運航となりました。教育実習中、まだ土曜日が学校営業だった時代のこと、土曜日のはくつるで青森入り、1便~4便と乗り、青函くつろぎカードで時間ぎりぎりまで船内で過ごし、ゆうづる3号で帰京し、そのまま実習へ行くという強行軍を決行しました。教育実習日誌と授業の指導案を寝台車と連絡船の中で書き、ネクタイ&スーツで連絡船に乗りに行ったわけでした。教員養成大学にとっては教育実習は非常に重要視されていて、まして付属の小学校でのこと、この行動には指導教官が呆れかえっておりました。その後何年間か、「これこれしかじかな大馬鹿者が…」とオリエンテーションで語り継がれたとか。
さて、…まずは1便のグリーン券。
なぜに気仙沼発券かと…仲間みんなで手分けして駅に並びました。1ヶ月前は8月18日、夏休みの真っ最中です。旅先で、地元で…で、取れた券をみんなで山分けしたわけです。お盆のUターンの混み具合もあり、ゲットに苦労しました。
盛大に見送られ函館を出航しました。
ちなみに4便のグリーン券。blogのはじめの頃にUPしたものですが再度。
その4便では…
満席なので座席はないのを承知で記念に売ってもらいました。なので座席番号は空欄です。
で、領収書。4便のハンコがしっかりとおしてあります。さらにグリルとサロンの領収書。例によってグリルはラーメン、サロンはクリームソーダでした。
夕日にシルエットが浮かぶ、すれ違いの3便羊蹄丸。逆光のシルエット、ゆっくりと名残を惜しむようにすれちがっていきました。
たくさんの船客がデッキで最後のすれ違いを見送りました。
そして、我が家の家宝、船長サイン2枚組
お願いしてお二方のサインを揃っていただくことができました。
青森到着のときに掲げられた横断幕と一緒に。
そして、最後、青函くつろぎカード。この日の原券は見事にみんな回収されてたなぁ…なので、くつろぎ記念券を。
最後に青森から羊蹄丸が出航する様子を動画で…
今回はflvではなくH264動画にしてみました。 まぁもともとがダビングもののVHSなのでそんなに変わらない…M.Y氏に感謝です。
20年の年月はさすがに長いです。私はつい昨日のようにリアルなことでも、しかし、すでに青函連絡船自体が鉄道年表だけに納まらない、その時代を生きた多くの日本人が共感し、注目した日本の歴史上の過去の出来事なんでしょう。そんなたゆとう歴史の中に身を置いていたこと、歴史が作られていくその場に熱い思いをぶつけたこと、若かった自分の生きた証のひとつだったんじゃないかと思います。それは、あの時、あの場所にいた多くの人が感じていたんじゃないかと思います。
小さい頃、時刻表を眺め、あこがれた北の大地へ渡る儀式、それが青函連絡船でした。初めて渡道した時の連絡船のタラップを渡る高揚感は今でも忘れていません。そして旅の終わり、夢の時間の終わりを告げるのも連絡船の汽笛でした。次はいつ来られるんだろう?バイトして金貯めないと…
初渡道から二十数年、すっかり北海道フリークになり、渡道回数も数え切れなくなりましたが、色あせない青函連絡船の思い出。青森駅で目の前にカニ爪の後部マストが見え、車両甲板の船尾扉が大きく口を開け貨車を出し入れしている…当たり前の光景でも、長い夜を列車で揺られ、ようやく青森まで来た、その光景を見ながられんらく船のりばの看板の方へ向かうあの気持ち…飛行機も好きですが、こと北海道へ向かう気持ちの盛り上がり方や感動は連絡船ならではのものでした。
もっと乗っておけばよかった、もっと撮っておけばよかった、保存されている3船のプロムナードデッキに佇むとき、そんな気持ちもさることながら、周遊券を握りしめて初めて北海道へ渡った日、バイト代を貯めてようやく渡道、また来ることができたとわくわくしていた若かりし頃の思い出がこみ上げてきます。
そんな思い出話に1ヶ月もの間おつきあいいただきありがとうございました。
とりあえず青函連絡船シリーズはここまでです。忘れた頃にぽつんと単発でネタが出てくるかもしれませんが…あ、例の連絡船動画with初音ミクの津軽海峡冬景色、やはり石川さゆり版がほしいというリクエストがぽつぽつと…ヒマを見て作ってはみますが、UPはさすがにまずいよなぁ…
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